東日本大震災から6周年を迎えた3月11日(土)、復興庁を代表して宮城県に出張し、県庁で献花の上、多賀城市の追悼式に出席しました。復興庁では、宮城県の各自治体の追悼式に担当副大臣が順次出席する事となっており、今年は多賀城市に伺った次第です。私が市長を務めた高岡市とは、万葉集の歌人、大伴家持卿の終焉の地として以前から市役所やロータリー・クラブ間の交流があり、菊地市長とも十年来のお付き合いで、震災発生の翌4月にはお見舞いに出向いたご縁もあります。復興事業は災害公営住宅が全て完成し、土地区画整理事業も間もなく土地引き渡しになるなど、ハード面は順調に進捗しています。とはいえ、市民で亡くなられた方が156名、住家被害が11,855世帯に上るなど、甚大な被害をうけておられ、14時46分から1分間の黙祷に思いを深く新たにしました。
夕刻に新幹線で仙台から盛岡に移動し、翌12日(日)は東京から出向かれた安倍総理に地元の鈴木俊一代議士とともに随行し、三陸沿岸の宮古市(山本市長)と岩泉町(伊達町長)を訪問しました。まず、宮古市立第一中学校の卒業式に出席し、震災当時小学校3年生だった生徒の皆さんが苦難を乗り越えて成長し、学び舎を巣立つに際し、総理から激励の言葉を贈られました。ついで生徒の皆さんが、被災地である福島県南相馬市立小高中学校で作られた合唱曲「群青」を歌い、皆で「宮古のため、岩手のため、日本のために頑張ろう!」と決意のこぶしを挙げました。私にとって、卒業式に立ち会うのは、市長時代以来の出来事でしたが、生徒の皆さんの凛々しさ、「頑張ろう」の音頭を取ってくれた応援団長の女子生徒の万感溢れる涙など、心洗われる時間となりました。
ついで、市内の田老地区に移動し、震災遺構として修復・保存された旧「たろう観光ホテル」にて、津波の映像を視聴しながら、当日の厳しい状況を松本社長ほか皆さんから伺いました。さらに、昨年夏の台風10号で大きな被害を受けた岩泉町にて、復旧を終え、19日(日)から公開を再開する運びとなった龍泉洞を一足先に見学しました。自慢の地底湖の蒼く澄んだ水面が戻ってきていました。安倍総理から、改めて「東北の復興無くして日本の再生無し」との初心で復興にあたっていく決意を報道陣に述べられ、発災7年目の復興庁の取り組みがスタートしました。
この間、新聞・テレビでも被災地の現状と課題を様々な角度から取り上げて頂き、風化を防ぐ効果があったと感じています。また、10日(金)夕刻、官邸で原子力災害対策本部会合が開かれ、福島県浪江町、富岡町の避難指示解除準備区域・居住制限区域の避難指示をそれぞれ3月31日(金)、4月1日(土)に解除する旨、正式に決定されました。浜通りの復興も新たな段階に入ります。
15日(水)には、外務省の飯倉別館でアジア大洋州大使会議のレセプションがあり、未だに我が国農林水産物に対し厳しい輸入規制を続けている国々に駐箚されている大使の皆さんに、復興副大臣として規制緩和に向けての一層の支援を要請しました。内外の風評払拭にも、一歩一歩取り組んでいきます。